[溺 デキアイ ]


「ほな入りまひょ」

入浴の準備が整った事を告げれば、いつも通りの言葉が返る。
長衣のホックを外し、きゅっと指先を噛んで手袋を引き抜き。
くるりと背を向けるのを受け、それを肩から滑らせ受け取り。
白い全身を露わにしたヘイゼルが浴室に消えるのを見送り。
自らも上半身だけ脱いだ状態で、その後を追った。
これは、あれから続く習慣。


「っは、あーしんど」
宿屋の主がいる間は背筋を伸ばし、淡く笑みなぞ浮かべていた子供は。
それがいなくなった途端、マントも着けたままベッドに倒れ込んだ。
「眠るならせめて着替えを…」
「寝ぇしまへん」
片頬を布団に埋めたまま、不機嫌そうな声で。
「ココ、バスタブある言うてましたやろ、アンタ準備したってゃ」
最後の方は瞳が閉じかけで。
そのまま眠ってしまった方が良かろうと思ったが。
小さな主の言い付けとあれば仕方ない。
湯を張り、タオルと着替えを用意し終えた頃には、案の定小さく寝息を立てていて。
「ヘイゼル」
名を呼び肩に触れたかどうかの瞬間。
「…っん」
ぴくりと身じろいで、薄く目が開く。
「なんや…」
眉間に皺で、だが声はとろりとして。
それでもこれ以上触れられるのを拒むよう起き上がる。
「風呂に入るんだろう」
内心でため息と苦笑いとをして、子供の覚醒を促す。
ぼんやりと、しかし不機嫌そうな顔のまま、ヘイゼルは浴室に向かう。
「大丈夫か」
ついそう聞いてしまったが。
「ん……」
常なら怒る子供扱いにも生返事しか返ってこない。
本当に大丈夫だろうかという心配は。
扉が閉じてしばらく後、全く音のしなくなった浴室に肯定される事となった。

「ヘイゼル?」
初めは控えめに、次いでやや強めにドアを叩いたが。
中からは返事も物音もなく。
躊躇いを振りきり扉を開けば。
湯気で白く霞む中、浴槽の縁に頭をもたれて眠るヘイゼルがいた。
ひとまず安心はしたが。
さて、どうしたものか。
「ヘイゼル」
湿った床に跪き、いつもより色付いた頬を軽く叩いて。
「〜〜〜〜っ」
振り払われるかと思ったが、微かに肩が揺れるに止まる。
それ程までに疲れているのかと思いつつ。
声にならない声でむずかる様子に、自然と頬が弛んだ。
薄く開いた口が規則的な呼吸を繰り返す。
こんな時にしか見られない、子供らしい愛くるしい姿。
「さむぅ…」
どれ程そうしていたのか、いつの間にかもやも薄らぎ。
逆に開け放したままだった扉から冷気が流れ込んで。
肩を抱きながら呟いたヘイゼルが、緩やかに目を開いた。
「なして……?」
ぽうっとした顔で問うのは、寒さの理由か、俺がここにいる事に対してか。
「そろそろ上がれ」
それには応えず、タオルを手に取り差し出す。
「アカン、まだ髪洗うてへん」
目をしばたたかせながら、小さく首を振る。
「はよ出ていきぃ」
言葉は命令でも、声音は未だうわごとの様で。
と、また首が後ろへ傾ぎ。
縁から頭だけ落ちかけた姿に、ふと思いついた。

「ひぁっ?!」
その濡れた髪の中に指を差し入れると、ヘイゼルが頓狂な声とともに飛び起きて。
「ナニさらすんっ!!」
浴槽の中、中腰で後退ったヘイゼルが、首筋から後頭部を両手で押さえて睨んでくる。
「髪を洗いたかったんだろう」
泡まみれにした手を示し問い返せば。
「はっ…」
ぽかんと口を開け、まじまじとこちらを見返してくる。
「その様子じゃ困難そうだったから、だから俺が洗おうとした」
問題があるか、と重ねて問えば。
呆れているのか怒ったのか、如何とも表現し難い顔をして。
「おかしぃわ、アンタ」
ぱしゃり、腰を下ろしヘイゼルは湯に浸かり直した。


あの後。
すっかり目の覚めたヘイゼルは。
いつもの調子を取り戻し、しかし何故かそのまま髪を洗うよう命じた。
更に不思議な事に、それは俺の仕事のひとつに加えられ。
今日もこうしてその髪に触れている。
「アンタとおると色々ラク出来てええわぁ」
ゆったりと、白い泡で覆われた浴槽の中、手足を伸ばしヘイゼルが笑った。
両腕を左右の縁にかけ、長い足を組む。
こちらに向けられた頭部は、すっかり委ねられていて。
柔らかい泡がハリのある髪を覆っていく。
あの日、初めてこの銀糸を洗った時は。
緊張か警戒か、全身に力が入っていて。
肩が凝ったなどとこぼしながら、しかし止める事はなく。
そんな思いまでしなくとも、と口にしかけたものだが。
「んーソコもちっと」
目を閉じて云う表情は穏やかで。
これ程までにくつろいだ顔を見せる様になるとは、あの頃は思いもしなかった。
指先にほんの少し力を込めてやれば、すうと薄く瞳が開かれ。
くつくつと、可笑しげな声が上がる。
手許の頭が思いきり後ろに反らされて。
「昔はアンタ、力の加減判らへんで、やたら弱々しぃてなぁ」
ぱちりと開いた目が真下から見上げてくる。
「大きいナリして思いきり悪ぅ思とったんやけど」
それは、初耳だった。
「今は、どうなんだ」
そう問えば、笑みが深くなり。
「さぁ? どやろなぁ」
云いながら頭を戻し、俯き加減でくつくつと肩を揺らした。
今日まで続けさせているのだから、気に入らないという事もないだろうが。
本当の所どうなのか。
気にならないと云えば嘘になる。
それでも手だけは動かして、最後のすすぎをして。
いつもならすぐに開く瞳が閉じられたままで。
「終わったぞ」
云ってその顔に触れれば。
「ん……」
と、手の平に頬がすり寄せられて。
それをもう一度撫でると、やっとうっすりと青い目が現れた。
「もう終いなん?」
目許をこすりこすり、掠れ声で。
「ああ」
「あぁもぉかなわんわぁ、眠らしといてぇな」
話すそばから瞼が落ちかけ。
「ヘイゼル」
肩を揺すり起こそうとすれば。
「アンタが何も喋らんとうち放っとくんが悪ぃ」
眠りを妨げられたヘイゼルが、とろけた視線で睨んだ。
「……悪かったな」
ヘイゼルの様子に気付いていなかったのは確かで。
となれば多分、俺が悪いんだろう。
「ほしたらうちは寝とるさかい、アンタがベッドまで運んだってや」
縁の上で作った自らの腕枕に頭を乗せた。
「おい」
「イヤなん?」
頭はそのままで、拗ねた様な上目遣いで。
出会った頃は冷たいだけだった青い瞳が、いつからかこんな表情する様になって。
「なぁ?」
「……このまま抱いたら汚れる」
苦し紛れの言葉を吐けば。
「ほならはよ洗い」
くつりと。
先とは違う、悪戯じみた表情で体ごとこちらを向いて。
とろけた半眼でなく、生き生きとした顔で見返してくる。
「もう目は覚めただろう」
「何やしぶやなぁ、アンタにとってうちなんて軽いくらいやろ」
くつくつと、笑い声はさも楽しげに。
本当に、どうしたものか。
思ううち、ヘイゼルは苦笑い混じりのため息を吐き、泡をまとって立ち上がった。
「ま、しゃーない。これ以上つかってたら茹だってまうわ」
視線で促され、その身にまつわる泡を洗い流して。
「ついでやし、アンタもたまにはお湯につかりなはれ」
とん、とノックする様この胸を叩き、ヘイゼルが出ていった。
感じないはずの胸が、痛みではない何かを伝え。

また今日も、この子供にからかわれたと思いつつ。
けれど、それを心地よいとも感じていて。
善し悪しはともかく、この関係の甘さに溺れているのは間違いなかった。








2004/10/20
いかがでしょうか、アラキ様。
「ガト→ヘイで甘々」が、何故か仔ヘイゼルまで乱入してしまいましたが。
そこはそれ、スイカやおしるこにおける塩の存在というコトでひとつ。
洗髪中に居眠りできる程の相手って、最上に居心地の良い存在だろうなと。
少しでもお気に召していただけましたら幸いです。
リクエストありがとうございました。